ライト、ついてますか―問題発見の人間学を読んだ

大変に面白かった。個人的には、色々な啓蒙に富んでいるし今日からぜひ使っていきたい!と思える視点に満ちているという点で、「アイディアの作り方」に通ずるものを感じる。

自分は以前から「思考の枠を外す」と呼んで大事にしている視点がある。意識的に、色々な「もしooだったら」を、極端なくらいに脳内で入れ替えた上で今目の前にある問題を眺めてみる〜というものだ。
この本は、まさに「枠」を俯瞰して眺めてみようという取り組みが大量だった。

全体的には(本当であれば)難しいことを語っているように思う。しかし非常にユーモアの聞いた語り口と、思わず笑ってしまうようなスパイスの効いた(時に効きすぎた)イラストによって、この本の存在を「芯の強い”教授”」から「分け隔てない友達」のようにしていると感じる。
高度な問題をバシバシとやっつけていくような本も良いものだけど、こうやって気軽に頭を使ってみたくなるようなものも良いもの。

読書メモ

以下、実際に読みながら作っていたメモから。
琴線に触れた部分なんかの感想が中心。

(ただ、寝る前にベッドの中で読み進めた部分についてはメモがなかったりする😇)

第1部

P27
ユーモアのセンスのない人のために問題を解こうとするな。

個人的にも「ユーモアって大事よね」というのは常日頃思っていて、ブレスト何かをした時には「ギリギリふざけてないか少しふざけている」ような案を序盤で出せるように、という意識をしてさえいる。それがあってこの一文はグッと来た。

「ふざけたことを言っている」として発言を遠ざけたり蓋をしないで、「そんな馬鹿な!」というくだらない話も一旦受け止めて乗っかってみて、それが柔軟で豊かな視点の獲得につながる〜みたいな話かな。ブレストを「大喜利」のような感覚でやってみる、というのもそれに繋がる話かもしれない。
この文言自体が「おいおい本気で言ってるのか?」みたいなある種のナンセンスさを感じるような部分もあり(ユーモアを持ち合わせているかどうかで手助けしない相手を選ぶの?)、見事な再帰構造だなーって思う。

第3部

P60
たいていの不適合は、認識さえすれば容易に解ける。(中略)たいていはその不適合と付き合わなければならないものの方から処理できるものだ。人間というものは実に適応力に飛んだものだから、ほとんどどんな種類の不適合にも身を合わせてしまう。ただしそれは、当人たちが実はそうでなくてもいいのだ、ということに気づくまでのことである。そのとき、トラブルが起こる。

「トラブルが起こる」なんてネガティブな表現をしてるからビクッとしたけど、これは「問題が問題と認識されて、問題となる」って話だよな。
これはとても「そうだよな」と思うし大事にしたい部分。「思考の枠を外す」なんて言葉が個人的に好きなのだけど、まさに「いま目の前にある当たり前を、当たり前じゃないかも知れないという視点で眺められるか」というのは大きなヒントになるように思う。それが「実はそうでなくても良いのだ、ということに気づくまでのことである」という言葉で描かれている。

P62
どんな新しい「解決策」も、問題の定義が間違っていた時にそれと気づくのは、もとの設計者よりは利用者の方である。だがひとたびはじめに感じた親しみのなさが薄れると、人の適応性ゆえに不適合は目に見えなくなる。このことから、次の規則がどんなに重要かは、分かるわけだ。

結論に飛びつくな、 だが第一印象を無視するな

この後に続く「視点の新鮮さ」と合わせて、重要な示唆だなーと感じる。「なにか変だよね」「どうも使いにくいな」というのは、教育されていくと薄れるものだから、それに対しては「素人」の持つ新鮮な目線がいるよねーという風に思った。

ちょっと思ったのが、例えば「精神的にエネルギーが減っている時に、部屋が散らかっていてもそのまま過ごしてしまう」みたいなやつ。これは「部屋を片付ける気力がない」というのが問題なのだけど、もしかしたら「現状に適合する(抵抗をしない、新しい刺激を求めない)」みたいな力が大きく働いている状態なのかな・・・?「疲れている時はクリエイティブなアイディアが出てこない」みたいなのは馴染みのあるパターンだと思うんだけど、それと同じような事が同じような原因で生まれているのかもな、なんて気がした。

P69
こうなっていれば、答えを何か考え出すのに困難を覚える人はほとんどいない。コチラは「正解」を求めているのではなくて、彼らの意見を求めているのだ、という風に見えるので、威嚇的雰囲気の大部分が消滅するのである。意見なら誰でも、またはほとんど誰でも持っている。そして自分の個人的意見ということになったら、誰でも大家なのだ。

「何を求められているのか」というのを、言外のニュアンスまで含めて見極めようとしがち。
他人への問いかけはそういうとこを意識しながら行いたいし、逆に自分が解答者になっている場合は、そういう無意識なフィルタに邪魔されていないか?は意識しておいたほうが良さそう。

P70
われわれは、可能な場合にはいつでも、問題をまず自分たちにとって最大の快適さをもたらすような意味的レベルに置いてみるものだ。

暗黙的に、問題を大げさに考えすぎたり、その逆に余り単純化して硬直したりする・・・ていうのは、「求められている意味的レベルがズレている」ことによるのかも知れないな。知っている人からしたら「そんなやり方しなくてもここをこうするだけでさ」みたいなやつとか。

P75
10 意味に気をつけよう

※ 章全体に対する感想

なにかの問題を言語化する際に、書き手もしくは読み手が「言外の意味」を補完してしまう、それが極度に問題そのものを難しくしてしまう場面がある・・・みたいな話。
(なので、「明らかに他の解釈が仕様のないような表現を心がけよう」みたいな話だと思うのだが。)

これは凄い難しいよなぁ、そうだよなあ、と思いながら読んだ。頭が痛くなりそうなくらいだ。「そこに少女がいます」といった場合に「その時以外はいなかったのか」「少女以外、例えば少年以外はいないということか」みたいな。教習所の問題文がそんな感じなんだっけ?というのは、SNS等でもよく流れてくる。
でも、実際、気分や相手との関係地によって「教習所」になってしまうことはあるし、或いはそれを意識していないと問題文を書く人が読み手に対して「ここが教習所であることを期待する」ようになっちゃう・・って事はよくあるかも知れない。
で、章のタイトル、「意味に気をつけよう」だ。

第4部

P89
他人が自分の問題を自分で完全に解ける時に、それを解いてやろうとするな

「同じ課題設定でもそれを私(たち)の問題であるとされることで全力で解くようになる」みたいな話、面白いな。
「もしその解決方法を教師が提案していたら、受け入れられたとしても熱意を持って実行されなかっただろう」みたいな。あるいは、「これは彼の問題である」という視点で(他人が)解決策を出そうとすると、また変わる・・とか。

問題の持ち主が「彼」の場合は「タバコを吸うのを禁じる」という「彼が解決するように求める」、「私達」の場合は「みんなでタバコを辞める」とでもいうような(そこにいる90%以上の人はタバコ吸ってないのに!!)、「毎週1人ずつ、タバコより感じの良い楽しくなるやつを持ってくる」っていう。言ってみれば、そもそも「タバコが害」なのではなくて、喫煙者の彼も「楽しむための手段としてタバコを採用した」ってわけで、この「楽しむための集団は何があるか」という課題を共有した感じかな?だから「取り上げる」じゃなくて「皆で享受する・与える」みたいな方向性に変わっている、っていうように見える・・・

第5部

P110
第2の理由は「自然」の無関心さである。もし問題の原因を、人、または現実の事物ないし動作に求めることが出来るのであれば、解決の可能性に関する足がかりが得られる。問題の源泉に手が届くことによって、または問題を作り出した張本人の動機を理解することによって、われわれは問題を解消したり、それを軽減する道を見つけたりすることが出来る。

「変えられる部分」が原因だと考えたら初めてそれが「問題」になる、という感じか。どうしようもない部分に原因を求めると無力さに繋がるし、「公理」として逃れられないものになりそう。
第4部の「それは誰の問題か」同様、「どこに属する問題か」という視点はめちゃくちゃ大事なんだな・・・

P118
問題の出どころはもっとしばしば我々自身の中にある

ややこしいイザコザが発生してしまい、事態が硬直しかけたが、相手を1にの人間として誠意を持って接する(まず名前を聞いて、侮蔑的なあだなではなくて固有名詞で語りかけるようにする!)ことで氷解・好転してどうにかなった・・・という話。誠実さを持って接することで、あちらも「この問題をどうにかしよう」という知恵と力(小銭)を出してくれた、と。

ここまで読んで、「あぁなるほど、そうやって自体がいい方向にガラッと変わる、転回することもあるか。気をつけたいね」と思う反面で、「しかし今まで読んできた他のエッセイと違って、理知的と言うよりは道徳的な話だなぁ」なんて感じていたら「追って書き」である。

P119
追って書き この章は、本書の中でも失望感を与えることの、もっとも多い章の一つである。(中略)悪玉が善玉で、善玉─つまり読者自身─が実は悪玉だったと知るのは、がっくりとくる経験である。

こっちの気持ちを見透かされているのか!?と思って笑ってしまった。
この「実は自分が悪玉」問題、肝に命じておきたい話ではある。あの「自分が老害になっていやしないか」と気づかされ、頬をぶん殴られたような気持ちになった瞬間が思い出される。