「発見」される文化と人工的なルールについてのメモ

連続でツイートを飛ばそうかと思ったけど書いてる内に止めたやつ。
少しだけ編集して 最終的に色々と足した感じで、ブログに残しておく


① ‪例えばコーディング規約とかの「比較的ありふれている」と言われるようなプラクティス(各論的な方法)ですら合意を得て導入するのは簡単じゃないので、考え方はバラバラでも良いけど考えている事は揃えたいよね〜的な‬

②‪ 自分の場合はそういうの入れる時はまず「憲章」から設けるようにしているし、実際に前職で新規レポジトリ作った時は「前段」を入れたりした‬(当時は、今ほど深く考えていなかったけれど)
コーディング規約 for small team 2018 - 大好き!にちようび

③‪ こういう「行動を縛るルール」は、道標として機能していれば良く、逆にプラクティスレベルで「どうした方が良いか」の認識がチームで揃っていれば本来的には不要なはず〜って思うと必要悪な感じはする。‬

④‪ コーディング規約だと具体的・卑近的すぎて「それが無いほうが理想」というのを想像し難ければ、例えばcode of couduct。アレとかは、「もし無くても皆が求められるような理性的な行動をするならば」という前提で、本当は存在しなくても良いのでは?と。‬

⑤‪ こういった「無くても良いのに有るものを減らす」というのが文化の力なんだろうな〜って思う。‬
‪もちろん、他の側面では、自分たちを内省して「発見」されたものを言語化して記述して、理想への眼差しを他人同士の見ているもの揃える〜という、文化に対する補佐的な機能が「明文化すること」にはある‬

⑥ ‪最近事あるごとに「やり方を上から与えられると歪むのではないか」「どうやって、草の根で文化の力を育むか」みたいな事を考えてたけど、多分こういう事なんだろうなー。決まりがあって人が動く、というのが楽しいかどうか・・下手すると権威だけがそこに残るのではないか・・‬


と、ここまでがtwの下書きから引っ張ってきたもの。
折角ブログに場を移したので、もうちょいグダグダと書く。

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「文化が〜〜」みたいな概念が最近は結構お気に入りで、これはfukabori.fmのエピソードを聞いてハッとしたのがきっかけ。

25. 日本企業を辞めてカーネギーメロン大学へ入学し、Nianticで働くまで w/ noralife | fukabori.fmの30分辺りから。 ↓該当部分の書き起こし

文化っていうのは行動に現れるものである。 要するに、何かを言わなきゃ何かができない・・例えば、すごいわかりやすい各論の話ですけど、会議をした時にその議事録が残っているとか、アジェンダが用意された上で会議に臨んでいる。みたいな行動があったとして、言わなきゃできないんだったらそれは文化じゃないですよね。 何も言わないのにアジェンダが会議に用意されていて、Googleカレンダーに貼ってあって、会議が終わるとアジェンダに議事録のメモが書き起こされて、全員が見れるようになっている。それを、いちいち誰にも言わなくても、全員がそういう行動を起こせるっていうのが、文化として根付いている。そういう行動様式、行動をとりましょうねっていうことだと思うんですけど。

この時に「小さなチーム、大きな仕事」が言及されているのだけど、該当部分を引用するとこんな事が書かれている。

文化はつくるものではない

即席でつくった文化は人工的だ。ミッション・ステートメント、宣言、ルールからなるビッグバンみたいなものだ。わざとらしくて、醜く、見せかけだけだ。即席の文化は絵の具のようなもので、本物の文化は緑青のようなものだ。 文化はつくるものではない。自然に発達するものである。だからこそ新しい会社には独自の文化がないのである。文化とは普段の振舞いの副産物だ。わかち合いを奨励している会社では、それが文化に組み込まれる。信頼を重視すれば、それが組み入れられる。もし、顧客を大事にしているなら、それが文化になる。 文化とは方針ではない。社内のサッカー盤や、社員の信頼を深める研修、クリスマスパーティーやピクニックでもない。それらはただの物や行事で、文化とは程遠い。スローガンでもない。文化とは行動であり、言葉ではない。 無理に文化をつくろうと考えないことだ。上等のスコッチのように、熟成には時間がかかるのだ。

ジェイソン フリード,デイヴィッド ハイネマイヤー ハンソン. 小さなチーム、大きな仕事 働き方の新しいスタンダード (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1604-1615). Kindle 版.

この「文化とは行動であり、言葉ではない」という部分。 恐らく、自然と過ごす中で育まれ(熟成)、発見され、強化されていくものなんだろうな〜って気がする。

その途中で「それを守るために言語化していくことも必要になってくるタイミングがある」というのも先述のpodcastの中で触れられていて、直近の例でいうとnote社についての発信にそれを感じた。

これなどは、「元々みんながそうしていた事」であって、何も「生み出した」りしていないというのがポイントだな〜と。
何もない所に、人工的に作った何かを根付かせようというのは違うはずだ。

冒頭の「コーディング規約」については、実際問題としては「いやいや文化とかそういう類いじゃないでしょ、生産性に絡む類の規律でしょ」という見方もできそう。ただ、ちゃんと「文化」による支援を得て成立できるといいよねぇ。。。というのが、個人的な感情としてはある。
そして、そういう狙いの場合は殊更「トップダウンで決める」というのがとても難しいのじゃないかなぁ〜とも感じるところ。不可能とは言わない。強力なリーダーシップやカリスマがあれば、寧ろ迅速で効果的に導くこともできそう。

「組織のルール」と「組織の文化」が一致していると強いよねぇ〜という話でもあり。
先日、社内で「変えるのは簡単でトップ(CTOやマネージャー)に言えばそれをイエスやノーにすることは可能。なので、意思決定をしたいならCTOを巻き込むのが早い」という意見や「(トップから落とすのではなく)草の根的にやって、そこから大きなムーブメントが生まれることを期待したい」という意見が交わされるような議論を目にした。
コレなどはまさに、最終的なゴール=組織の理想状態を考える上で「決まり事を作る」という手段にどういう段階で手を出すか?といった見方の相違なのではないかなーと感じる。

恐らくナラティブの概念を補助線にすると問題の構造が見えやすい気がする。

組織の中でベテラン的な存在や(意思決定ツリーの)トップラインに近い位置にいる人などは「規律を作ってから動かす」というアプローチを採用しがちなのかもな?と考えている。彼らは比較的、「組織は理想を持って動くもの」というのを(ともすれば無自覚に)抱いている可能性が高いからだ。なぜなら、組織を「作ってきた側」にあるから。
他方で、若手や ボトム側の人間は、組織やその理想と個々人の気持ちよさだったり納得感というものは「一致していない」のが前提に感じている可能性が高いのではないだろうか。

「ルールがあれば上手くいく(そうなるように頑張ろう)」と思っている人と「ルールなんてファックだ、心で合意できないものが価値を生めるか」と思っている人がいれば、そりゃ対立するよねって気がする。*1

「文化」というのが問いで「ルール」というのが答えだとしたら、やはり文化の方がしなやかで強い組織を育むものと思っている。
自発的に、自他に問い続けることができるチームは、本質への追求を原動力に動けるし理想のための変化を恐れないんだろうな〜と。
カルチャーに導かれて一個にまとまる状態・・・


話が逸れかけましたが、まぁなんというか「気持ちよく働きてぇな〜それが出来ていないって時には何を観察したらいいかね?」という徒然でした。

*1:言うまでもなく私は「気持ちよくやりたいから」後者でいたい、という立場。ただし難易度上がるし時間のかかる道ではあるというのは承知。「動けばいいや」なら前者でいいが、エンジニアって呼ばれる職業やってんだから内部品質の重要性は分かってるでしょ・・?